第3回集会


2月15日に「学びをつくる会」の第3回集会がおこなわれました。その報告です。全体会は片岡洋子さんの講演でした。概要を紹介します。

 

今、子どもが求めている学びと授業
~「学力低下」といわれる子ども・青年とともに考える
片岡洋子(千葉大学)

 


 ここに私の子どもの行っている学童の懇談会の記録があります。そこでは親たちは「学力低下」への不安というよりも、もつと深いところで悩んでいることがわかります。一年生の親たちの声です。「先生のいうことにまじめにあわせていたら、つぶれてしまう。学校にふりまわされているようだ。」「学校で『わかる喜び』を感じさせる授業をしてもらいたい。」などというのです。学校を相対化しないとやっていけないという実感があります。
 ここで「学力低下」といわれますが、そのとの「学力」とをは何なのか。数値化された「学力」がかつての調査と比較して、元のようにひきあげればいいのか。また、個人が獲得し、所有する能力としての「学力」観だけでいいのか。学力はお金を貯金箱に貯金するようなものではありません。
子どもたちの問題として学力問題を考えれば、今やっている勉強が何のためなのか、考えるに値することなのか、ということがあると思います。埼玉県鶴ヶ島の教育調査では、「何のために勉強するのかわからない」という子どもが小4から小6まででは、「よく思う」と「時々思う」をあわせると42.8%でした。中学では60.4%にもなります。中3の女子では7割が「何のために勉強するかわからなく」なっていました。これは「受験のため」というだけでは納得できず、答を見つけられないまま勉強している中3生の姿があります。
子どもの中には、個性をも競わされる状況の中で、問いや葛藤が生じています。ふたつの実例を紹介します。
① ある公開研究会で小学校5年生の学級会をみました。「クラスの中にいじめがある」という訴えの中で「みんなでもっと仲良くできるイベントを考えよう」という子どもたちの討論でした。「みんなが楽しめる、仲良くするために、勝ち負けのないことをやりたい」という声が上がります。それから「個性をだしあいながらやろう」という声もあります。スポーツをやりたいという声。人形劇をやりたいという声。人形劇は勝負がありません。討論するなかで子どもたちの間に対立がうまれてきます。「個性を出し合うということは能力差がでることだ」「みんなが楽しめるということと個性をだすことの両立は無理だ」という意見が出てきたのです。この子たちにとって、個性というのは「どんなところが秀でているかを競い合う」ということになります。それをのりこえて「オマエのせいで負けた」ということのない、本気で仲良く協力できるのか、と問うたのだと思います。
 一人ひとりの個性が認められることは、仲良く協力しあうことと矛盾すると言い張る子どもたちと、個性を認め合うことは競争原理と異なるのではないかと反論する子どもたちの話し合いは、私たち大人が現代社会で抱える困難に通じるものです。簡単に出口の見えないことだけれど、それぞれが実感を持って発言していると思われました。
② 「現代と教育」60号(2003年)に載せられた岐阜の田口さんの実践です。身体に障害を持つK君の「18人19脚をみんなとやりたい」という声をめぐってです。中1のこのクラスでは話し合いをします。「勝ちたいからK君にはでないでほしい」K君「勝つのが目的ではない」「K君には障害がある。僕らと同じようにはできんことだってあるもんで、何でもかんでも一緒にやろうとするのはワガママ」K「僕は確かに障害があるけど、みんなはもし僕みたいに障害があったら、どう思う? どんな気持ちになる?」「私はK君みたいな障害があったら、みんなに迷惑をかけたり、気を遣ってもらってまでやりたくない。自分がやりたいのをがまんする」というやりとりがありました。そして、クラスを「K君と一緒にこけずにゆっくり確実に行く」というチームと「どうしても走りたい。記録をめざす」という2チームにわかれます。結果は練習した「ゆっくり」チームは着実にすすみ、「記録」チームは途中でこけて、記録は「ゆっくり」チームの方が早かったそうです。
 このことで子どもの関係ががらりと変わったというわけではなかったようですが、これもまた、子どもたちの生活感覚にしみこんでいる競争原理を越えられるものがあるのかどうかという問題に、子ども自身が向き合った例だと思います。


「現代と教育」59号で田中昌弥さんが述べています。「以前に『基本』として獲得した知が、次の段階では、新たな『基本』を学ぶ『基礎』になるという関係である。したがって『基礎』とは、その上に築かれるものとの関係で『基礎』と呼ばれるものであり、『基礎』なるものが実態的に存在するのではない。しかし、われわれは、まず『基礎』を身につけ、その後で初めて次に進むべきだという積み上げ的発想に馴染んでおり、その上に何を築くかは曖昧なまま、一定の知を『基礎』あるいは『基礎学力』と呼んで実体化し、自己目的的に重視する傾向がある。しかし、それでは、何のための『基礎』を学んでいるのかが、子どもたちにはみえない。どのような知も、その先の知との関係では『基礎』の位置におかれるから、子どもたちは、目的や意味がわからないまま、いつまでも『基礎』の学習をしなければならなくなる。」ここで、田中さんが言おうとしていることは、「基礎が必要な時に学びなおすこと」を可能にする「基本」とは何かということではないでしょうか。


大学教員として、私も学生の「学び」をどうつくるかを手探りで実践しています。
① 必修の「特別活動」の授業です。100名以上の大人数ということもありますが、6人グループにして、アイスブレーキングなど他者の意見を聞く関係づくりをしてからディスカッションをします。熱気球ゲームというのをやります。熱気球にのって重たくなり、次々に持っている10の権利を捨てなければならなくなります。どの権利から捨てていくか、という問題です。学生によって価値観が違いますから、討論になります。自分の意見を6人のグループの中でだしあい、結論をだします。ださなくてもいいのです。そして発表しあいます。「私だけの寝室を持つ権利」にこだわる学生がいます。意見をきくと「愛し愛される権利」がなくても「ひとりになれればがんばれる」というのです。「職業を持ち、働く権利」も女性が最初に捨てるかというとそうでもありません。男性でも「養ってもらえればいい」と考える学生もいます。ジェンダーの問題ばかりではありません。共通して最初に捨てられるのは「政治に参加する権利」です。「自分にそんな権利があったのか」という感じです。
また「シチューのコマーシャル」を調べてきた学生がいます。シチューのコマーシャルの中で、誰がつくっているのか、誰が食べているのか、にこだわりました。父親がでてこないCMもありました。これも「家族」についてみんなで考えました。メディア・リテラシー教育としてよく行われていることの一つです。これは特別活動の授業なので、学級活動の中で人間関係を結ぶ時、子どもたちの中で気遣いがあるのだけれど、それを気遣わなくてすむ、ということを学生たちも自身が体験しながら考えていけるようにしています。
② 選択の授業は、大人数なので、少人数グループで、実践記録を読みあいをしています。小学校の教師から学んだことですが、「予想をたてる」とかアニマシオンの手法で、ある部分を「かくす」などというものです。
 山崎隆夫さんの実践をとりあげた時の例です。「真也君が、この日も何か休み時間の怒りをひきずりながら算数の授業に参加していました。わり算の学習です。怒っていても授業の中で心の回復ができることがこれまでもよくありましたから、授業を優先していました。黒板に何人か登場できる計算のワクをつくりました。前に出て問題の解答を書くのです。勢いよく手をあげるみんなの中に真也君もいました。『24÷6、この問題を真也君やってください』気分が変わるかなと思って指名しました。するとチョークを持つ手が動いて、彼は24÷6=4と書きました。怒りがやっと収まったかなと思いながら、わたしがふっと息を吐き出したときです。チョークが再びカタカタと動き出して、次のような文章が解答の上に書かれました。『みんながぼくをバカにする。アッカンベー』これも教師生活にとって初めてのことでした。『参ったな、さてどうしたものか』黒板を見つめながらわたしも頭をかかえてしまいました。『先生、いったい真也君をどうするんだろう』とクラスの子どもたちもジッとわたしを見つめています。ここは真剣に対応しないといけないなと私は強く思いました。」
ここで私は、学生たちに「このあと山崎先生はどうするか。みんなだったらどうするか?」を問いかけます。学生の討論で意見がわれたポイントは「先生は授業を中止するか」ということと、「真也君に個人的に話をするか、クラス全体に話すか」ということでした。大学生は教師志望ですが、教師の立場よりもむしろ、子どもの側にたって考え、発言するということもわかりました。自分が思っても見なかったことを聞いてハッとした、他の人の意見を聞くと自分の考え方が広がって楽しい、もっとよく考えてきたくなった、などといいます。こうした学生どおしの意見の交流を通して、その後で「もっと話をききたい、本をよみたい」という要求がでてきます。知的探求心の「基本」は探求に値する課題についての他者との討論など、協同の中でこそ得られるのです。
 ゲームや、実践のその後の予想の中で、それぞれの学生が自分の生活感覚や実感を出し合いながら話し合います。異なる意見を出し合い、それらを聞きあう中で、はじめは突拍子もないような意見と思えたことにその人なりの論理や経験の裏付けがあることを知り、みんなで考えあうことで新たな発見があり、おもしろいということは、田中昌弥さんが言う「基本」の一つだと思うのです。それは大学生がそれまで十分身につけてこなかったこと、そして大学での学びに支障を来していることの一つでもあると私は思います。

私の友人で中三と小4の不登校の子を持つ母親がいます。その人がいいました。「学力問題からおりられない人はたいへん!」
今の社会の中で子どもが生きていくということ、その子どもとともに親が変わらざるをえないということ、彼女がいつも話している地平で、果たして「学力問題」が論じられているのかと突きつけられていると感じています。

 

***参加者の感想から***
・子どもたちとの本音でぶつかのあう教師、子どもたちの本音から学び、考えていく教師、どれもむずかしいですが、常にそうありたいと願っています。よい講演でした。
・今は“個性”が重視され、個性を大切にと言われているけれど、実際には、個性競争、競争原理の中で、他者と切り離すための道具としてでしか個性が大切にされていないんだなぁと、今日のお話をうかがって、つくづく実感しました。他者との学びあいの中で、様々な形の学びが出来上がることの大切さがよくわかりました。
・今の子ども、学力、学ぶことについて、ひじょうにわかりやすく鋭い提起でした。ありがとうございました。
・個性=能力主義的なものという認識を育ててしまった教育政策の失態、これからどうなっていくのでしょうか。「子育て」と「教育」がどんどん離れていく感じがしました。
・個性さえも競争させられてい子どもたち。母たちの神経症的なかかわり方も責任あるなぁと自分も含めてふりかえっています。
・学力について考える基礎・基本。貯金箱につめこんでためていくものとは違う学力の土台のようなもの、この力と分科会での実践が一本の線につながったように思います。

第一分科会・教科を深く豊かに

 三回目を迎える「学びをつくる会」において、毎回多数の参加者が集まっているのが教科分科会です。それだけ、私たちの仕事の中心的な課題であり、また現場の人間にとってつねに最大の関心事が「授業」であり「豊かな学びの創造」なのだということをあらわしていると思います。

 

今回は、世田谷の田所さんがレポーターでした。田所さんは人も知る歴史教育者協議会(歴教協)のリーダー。この道ひと筋に歩いてきた人です。半数を越えた若い参加者にとっては、キャリアを積むとはこういうことかといならせる資料と展開であったことでしょう。しかし、だから「私には及ばない名人芸」という印象ではなかったかと思います。
 美しい四季の風景からその土地を連想させ、実はそこに住む人々をおそった苦しみがあったことに、次の一枚の写真から対比的に浮かび上がらせていく。そこに水俣病との闘いの歴史があったこと、さらに、それをこえ、今をたくましく生きる人々の姿、そこから届いた無農薬夏みかんを、スーパーのワックスで輝く夏みかんと比べて食べて思いをはせていく。
 まず自分が驚く、感動する、それを大切にして伝えていきたい。どういう事実に出会わせていくかを大切にしたい、結論が知識として獲得されるのではなく、社会科がくらしの積み重なりとして、世界の見方がおもしろく身についていくようにしたいと田所さんは結んだ。ワークショップをとり入れたレポートに共感が広がった。
 質疑の中で出された、メディアリテラシーやワークショップの考え方を取り入れていく時は、ひとつの真実に到達させるという協同だけでなく、一つの資料から多様な見方ができることに気付いていく協同の視点も大切ではないかという提起がなされた。読書のアニマシオンをすすめる私にはこの提起がずしんときた。
(岩辺 泰吏・記)

 

***参加者の感想から***
・久しぶり普段使っていない部分の脳を使った感じです。自分の教科を持っていたころをふりかえると恥ずかしいというか、自分で学習観・教育観・教科観を据えないで日々のコマに追われていたことを思い出しました。一つの教材に対する見方・視点を考えさせられました。
・様々な資料や情報がもりこまれていて、とても面白かったです。いかにして子どもの考えを引き出す、自分の見方を育てていくかという実践を見ることができて、本当によかったです。ありがとうございました。
・子どもとともに学ぶ、というイメージ豊かなお話が伺え、元気が出、子どもとの出会いがたのしみになってきました。もっとじっくりとお話を伺いたいです。

第二分科会「教師をめぐる困難と希望

 この「教師をめぐる困難と希望」分科会は今回初めて設定されました。参加者は学生9名、研究者3名を含む約30名。まず、八王子の小学校教師・神原昭彦さんの体験を聞きました。

 

 神原さんが異動してすぐに6年生を受け持ったときのことです。4月当初はよかったものの夏休みを経て2学期になるとうまくいかなくなり、「学級崩壊スレスレ」の状態になったとのこと。「スレスレ」という言い方は「学級崩壊」させる力のない教師というレッテルを貼ることを自ら拒否しようとした言葉で、そのときは「崩れてくる天井を必死で両手で支えている」という心境だったそうです。
 今にして思えば、①現象を追うのでなく背景となる深い問題へのアプローチが必要だとか、②親とはよく話したが子ども本人とは正面から向き合わなかった、③「受容」が足りなかったなど反省点もみえるが、そのときはそんなゆとりはなかったとふり返ります。「学級崩壊」には学級の無秩序状態と教師に対するイジメ(不信・反抗)という二つの現象があるが、結局は子どもとの関係であり、自分のやり方に子どもを会わせようとするのでなく、教師自身が現実から学び柔軟かつ前向きに考え実践を工夫していくことだと話してくれました。お話の中で、困難に陥っているときには他者に語るということが大切で、そのことによって自分を見つめる“もう一人の自分”を発見し、問題を整理することができると話してくれた部分は特に印象的でした。
 参加者からも質問や体験的意見が寄せられました。子どもに「あなたの夢は?」と聞いたとき、「先生の夢は?」と聞き返された体験を聞いて、先生だって発展途上なんだから完成され、固定化された実践ではなく、学び続ける姿勢が大切と感じました。
 「教師の困難」には、子どもとの関係、教師に対す管理強化、同僚や社会の目などいくつもの要因がありますが、どれも子どもの「生きづらさ」と結びついていると思いました。そして、このことを考えるとき、最後に発言した久富さん(一橋大)の「一人ひとりの子どもに『信頼してみつめているよ』という教師のメッセージが伝わるようにするにはどうしたらいいか」という言葉がキイワードになるのだろうと感じました。
                   (宮下 聡・記)
 
***参加者の感想から***
・自由の秩序、具体的にどのようなルールを作っているのか、という事に興味をもちました。
・テーマへの焦点化が今ひとつはっきりしなかったように思いはするが、「学ぶ教師」とはと大上段に構えて語るのではなく、経験をつきあわせていくということが(つまりこの分科会に参加すること自体が)学ぶ教師のありうべき姿なのかもしれませんね。

 

 

第3分科会「総合的な学び」をつくる

 

小川修一先生の話は、強化教育を総合化・生活化した実専と、教科の枠を超えた「総合」の実践の、大きく2点からなっていた。
 まず、教科の総合化・生活化について話された。
 1年生が「あのね帳」に「梅の木にトカゲが刺さっていた」と書いた。すると「なぜトカゲが刺さっているんだろう」と学級の話題になり、自宅の本で調べてきた子が「もずのハヤニエ」であることを発表する。すると今度は「なぜモズはそんなことをするのだろう」と、市立図書館での調べにつながった。子どものつぶやきから学びが広がり、深まっていく実践例である。
 また「少数探し」をして「少数は台所にある。はかるものに多い」ことに気づき、分離量と連続量の違いをとらえさせた授業や、ダイオキシンの報道から農業へとつながっていく授業など、教科を発展させた実践例も多く話していただいた。
 次に教科の枠を超えた「総合」については、グループ別に課題設定して調べた『川と人とのふれあい』「省エネ教室」での学習を全校集会や保護者会での訴えにつなげた『ぼくら環境調査隊』などを話された。
 小川先生は、総合学習をことさら意識したことはないそうだ。子どもたちの問いを交流し、どうやって解き明かしていったらいいかを、教師も一緒に追及していったらよいのではないか、という言葉で締めくくられた。
 続いて、質疑・討論に移った。
 「グループ毎に多様な学習課題を設定した後に、どうやって共同の学びをつくつていくのか」また、「本質的な課題をつくれず、学びが深まらないグループが出てきてしまう」という悩みが出された。全員の学びを深めることが大切なのか、質は問わず他の何かをねらうのか、「総合」の本質を問う議論だと思う。
 教科の総合化・生活化については異論がないだろう。教科を超えた「総合」についても、教科の枠に納まらない事柄を扱いやすくなった。では、それでどんな力をつけていきたいのか。その議論はもっともっとしていく必要があるだろう。それがはっきりした時、深まらなかったグループ学習の是非や、「川」・「省エネ」といったテーマ設定の視点があきらかにらなってくるはずだ。
 短時間だったが、今後の議論の方向を見いだせる討論になった。
(桐生孝文・記)

 ***参加者の感想から***
・総合についてよくわからなかったことなどが少し整理されたように思います。総合はやらなくてはいけないからやるのではなく、子どもからの必然的な動きがあって、初めて生きたものになると思います。提案の先生の実践は素晴らしいものでした。
・私も今、小学校4年生を担当しておりますので、とても勉強になりました。子どもは学びたいと思ったことがあった時、子どもたちは自然に学びを作っていくという小川先生の言葉にあらためて授業作りを考えさせられました。たくさんの資料をつくっていただきありがとうございました。
・学び(真の意味での)の重さ、深さについてふれられたように思います。子どもからの問いを子どもたちとの共同で解決していくことをされている。この実践は教師の人間の豊かさ、厚みのようなものが、ものをいう・・・という感じがします。人間としてもっとももっと学んでいかなくては・・・と思いました。

 

 

第4分科会「今を生きる子どもに寄り添う」

 


 荒れを乗り越えて育つ思春期、山岡雅博さんの提起を一言でいえばこうなるだろう。その「育つ」子どもたちと支えた教師たちの実り豊かで、だが苦しい3年間の軌跡が語られた。
 1年時は、素直でいい子に育てられていた多数の中で、お笑いタレントのように人気を集め、その奔放さが思春期の自立の象徴であり得たK君。2年時、腕力を伴うプロレスごっこなどの遊びがはやる中で、体力的成長と共に取り巻き仲間は力の集団へ変化した。仲間の一人へのからかいに力の報復をしたことから、一気にエスカレートして事件の連続する毎日になった。学年の教師は夜9時10時まで、子ども・親たちと話し合った。一つが終わらないうちに次が起き、対教師暴力事件も起きた。「荒れる子がいても荒れるクラスにはしない」クラス自治のとりくみで、班長が少しずつ育った。遠足では校長は一時避難的登校停止処置で乗り切ろうとする姿勢であった。班長会がK君も一緒に行くよう直談判し、班編制替えまでして遠足を成功させた。いじめ問題を保護者会が班長会と相談して解決したりもした。3年時には暴力事件はなくなった。修学旅行では「いたずら」事件がおこったが、各班長自身の行動や班長会自体の覚悟の甘さが批判され、正された上で、いたずらの謝罪反省が総会全体会で行われるまでになった。その彼らは、作成委員会で集団討議された「卒業のことば」で「私たちは育ちました」と言い切り、「判断力、行動力、信頼、自信」の4つの力を身につけたと3年間を総括して、淡泊なさわやかさで卒業していった。
意見交換で「荒れは思春期の葛藤の姿である」ことが、さらに明らかになった。事件は宝、チャンスで、そこでとりくめる。教師の直接指導よりも、子どもたちの関係性の中で育つ。切らない人間関係をつくることが大切で、切り捨てなければ必ず戻ってくる。自分が自分であり、それが人のためにもなること、みんなに目を配る大切さをわかることで、リーダーは育つ。 (本多道彦・記)

 ***参加者の感想から***
・中学生の人間関係の作り方、かかわりあい方の話が聞けて大変勉強になりました。ありがとうございました。
・わが子の中学校は受験の変化などにふりまわされて、子どもの思いにむきあう余裕をもっていないように見えます。山岡先生の実践のようにこんなに育つことのできるエネルギーのむけどころをなくしている哀れな3年間だったなぁと思います。等身大の娘の値打ちを見捨てることなく、見守っていきたいと思いました。こんなに深く見つめてくれる先生に出会わせてあげたいです。
・指導や子どもの行動について、どういう意味をもっているか、話してくださったので、とても参考になりました。