第10回集会


 
1月28日に「学びをつくる会」の第10回集会がおこなわれました。その報告です。

 今回の集会は、「豊かな問いを育てる授業」をテーマに講演と分科会をもちました。熱心な参加者が120名を越え、真剣に考えました。今回も若手教師、学生など若い参加者が多かったことが特徴的なことだと思います。

 午前は全体講演です。開会あいさつは菊地良輔さんがたちました。
 「今の日本はただならぬ状況です。閉塞感があって出口が見えない感があります。ライブドア事件は今おこっていることがらの本質が多くの人にみえてきたと思います。小泉構造改革がもとになっている、ということです。阿倍晋三氏は『構造改革がなければ堀江氏はでてこなかった』と言っています。弱肉強食の状況がここまでくればたいていの人はわかるのです。自民党関係者の間でも小泉改革=善という考え方が変わり始めているといいます。潮目が変わってきたというべきでしょうか。
 『学び』の共通理解も深まってきています。私たちも例会で『学び』についての動向を学んできました。今を生きる子どもたち、若者がどんな生き方を求めているかの合意が徐々に広まってきています。学びについて訓練主義や機械的学力論をのりこえていくことが求められています。2年前の全国教研のレポートの中に『最近の脳科学は読み書き計算が子どもの脳を活性化させる』という文がありました。とても気になりました。こういう言い方は間違っていると思いました。さいきんまでマスコミも肯定的に報道していました。ところがさいきんの毎日新聞で『ボケない脳を鍛えるブームだが、最新の脳科学では、食事・運動・人間関係が関係していることがわかった』と書いています。単純な計算でも脳を活性化させるのは当たり前です。これが学力の基礎をつくるための唯一の指導だとアピールするのが許せません。脳科学の分野からもこれまでの見解に対しての警鐘があります。」

 続いて山崎隆夫さんから講師の今泉博さんの紹介がありました。そして今泉博さんの講演にはいりました。

 

講演:「豊かな問いを育てる学びを」
今 泉  博(北海道教育大学釧路校)

 
 釧路は今とても寒く氷点下18℃ほどです。北海道からレポーターを含め11名が参加しています。東京にくる途中、茨城の長倉小学校を訪問してきました。御前山にある小さな学校です。ここは町がさびれていて、学校の先生方は子どもたちに自己肯定感をもたせようと地域にはいっていきます。昔の商店街は活気に満ちていました。子どもたちが地域にはいってききとっていくと「昔は葉たばこの集積所が御前山にあって活気に満ちていたこと」がわかります。なぜなくなってしまったのか、子どもたちは原因を考えていきます。ここで活躍している鈴木正気先生は「教材とのであい、事実の追求」と言われています。ここを出発点にして、意味づけをしなければならないと言われています。

 私は一昨年の九月に釧路に行きました。その年の12月から学習会をはじめました。昨年六月には東京からも来ていただきました。今回のように発展するのは夢のようです。

 計算や漢字が子どもの成長・発達に貢献できるのでしょうか。低学力の問題がでてきたのは「分数のできない大学生」が問題になったころです。これはできる・できないというだけのことで、暗記しているかどうかしかありません。意味もわからず点数をとるためだけにやってきたということではないでしょうか。さいきん吉沢満雄さんという「分数のできない大学生」の著者の一人である方が「数学的思考法」という本で「数学というのは与えられた条件の中でいろいろなことを考える」ことなのに、計算がすべて、丸暗記という方向にすすんでいて心外だ。丸暗記は思考力をあげることにはならない、ということを言われています。計算練習は必要です。公式・やり方の導き方を納得した上でのことです。数式の命である等号を無視し、数値だけを書くというのもだめだ、とも発言しています。計算中心の学習には未来はない、ということです。

 歴史の勉強でも年号を覚えるだけではおもしろくありません。教師は調べると教えたくなりますが、「視点・観点・焦点」の一点をどうみつけるかではないでしょうか。

 教師というのは荒れた子を持つと教師をやめようと思います。4月から卒業式を夢見ることもあります。今の教育を変えるためには「面白い」ということが必要だと思います。ある卒業生からの手紙を紹介します。「先生の授業はよくわかるし、楽しくさせてくれた」というものです。どういう学びをつくりだすかということを考えてみたいと思います。ものごとの意味を深くわかるということです。意味を追求することです。ただおこっている現象をまとめるたけでは意味がありません。
 「問い」という漢字を考えてください。門の中は外からはみえません。門をあけて背後にあるものを探すのです。「問い」という文字は「門」の中に「口」がはいっています。口で探すのです。そうです。「ことば」でさぐっていく、ということです。小学校の時の思い出にアイスキャンディーをつくる授業がありました。砂糖をつけた棒を雪の中にいれておくか、空気中で凍らすかということでした。当然雪の中の方が早くできると思いました。でもやってみると、空気中にさらした方が早くアイスキャンディーができるのです。北海道の学校の話です。これも感覚とはちがいました。

 また、中学2年生の時の話です。校長先生が朝礼で「貧しいのは父母がしっかり働かないからだ」というニュアンスの話をしました。なんか違うな、と思いました。このことを深く考え、わかるようになるのは経済や哲学の勉強をした大学生になってからでした。「問い」はすぐには解決しないのです。

 体積をあらわすのに立法センチとか立法メートルとか必ずサイコロのようになりますが、ぐにゃぐにゃした形の体積はどうやって量るのだろう、と不思議でした。「くさり」の体積をはかる授業をやりました。子どもたちはいろいろ意見をだします。この「くさり」を水にいれて、そのあふれた水の体積を計算すれば良いことに気が付いていきます。小さい時の不思議に「羊の毛はあんなに短いのに毛糸はどうして長いのだろうか」というのもありました。「紡ぐ」ことを知った時の感動はとてもすばらしいものでした。蛇のお腹はどうして大きくふくらんでいるのか、を考えた時もそうでした。ねずみを飲み込んだようですが、あの小さな蛇の口からどうして蛇のお腹にはいっていくのかとても不思議でした。蛇の口の構造がわかった時、とても感動したのを覚えています。

 小学校一年生の算数の授業で99の次はどうして100になるのか、をとりあげました。タイルを使って説明し、ようやくわかると子どもたちはとても感動します。いろいろな問題もつくります。「象3匹と猿5匹であわせて何匹か」という問題をつくった子がいます。すると、友だちから「象と猿はたせないヨ」という声も出ます。違う種類のものは足し算ができない、ということも学びます。しかし、ここで「あわせて動物は何匹ですか」ときけば足し算が成立することも学んでいきます。子どもたちのちょっとした問いに敏感に反応していかなければなりません。「奈良の大仏は立ったら身長はどのくらいか」ということを考えた子もいます。これは座った大仏の高さはわかっていますから、「比」の勉強です。身長と坐高の関係を考え、大仏が立った時の身長も計算していきます。

 各クラスの中で通用する「ことば」を大事にすることが必要です。「勉強が面白い」ということをどうやってみつけだしていくか、ということを考えます。それは「教えたいことを教えない」ということです。ロープウェイを使って頂上まで連れていくのではなく、足を使いながら足を鍛え、山登りをするようなものです。子どもの声を聞きながら、それをつなげていくことです。子どもに対応していきます。井上ひさしさんの言葉を座右にしています。それは「難しいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」ということです。

 なんのために学ぶのか、という強い問いに対してどう応えるか、です。これにどれだけ応えられているかも問われています。現実に今おこなっていることの意味を問えないようではだめだと思います。今、学力問題では「学力」の中身が問われているのです。過労死が問題になっている時、生産と労働からかけはなれた学習は問題だといわなければならないでしょう。農地を耕すことの意味は根、土壌、みみず・・・と発展していきます。

 私は今「幼児教育」の分野の指導もしています。臨床と発達ということでやっていますが、地球の誕生から説き起こします。赤ちゃんが胎内から育っていく時、胎内での栄養は母胎からきますが、排泄はどうしているのでしょう。人類の歴史は700万年といわれています。その長い歴史の積み重ねの中に一人ひとりの人間が誕生したのだということをつかませます。今の命の大切につながる問題です。昔の人が困難な問題にどうむかっていったか、解決したかなどを考えることも必要です。

 良い授業というのは資料をどれだけ用意したかではありません。子どもたちの反応がなければ資料をたくさん用意してもだめです。今の日本はとても心配です。職員室でなかなか対話ができません。人事考課などで協力をつぶしています。不信感が広がっています。校長なども「誰をダメな教師にするか迷っている」という人もでています。フィンランドのように「競争しなくても世界一」という状況が良いと思います。労働は労働時間の中でやれるようにしなければなりません。教材研究も職場でできる状況があるでしょうか。授業準備をしないでのぞむ時は、うまくいかない予感があります。準備をすればわくわくして授業にのぞめます。教科書でもここが大事というところをみつけられるかどうかです。そのための時間の保障はどうしても必要です。

 さいきんの新聞記事を読んでひとつ引用します。「ニートとよばれる人がひきこもりになっています。ずっと何のために生きているか、を自問しているのです。いつも考えないとやっていけないのです。」という記事がありました。「いいかげん」のすすめです。そんなにたくさんできなくてもいい、ということで人間性を回復させられればいいと思います。「ぐうたら学入門」です。まじめさを問い直す、ということかもしれません。教師をしていると間違いも犯します。「何のために」ということを考えたいと思います。ある時、子どもが声をかけてきました。私は学級通信を書かなければと思って、その時その子に「後で」といいました。その子はその後、声をかけてこなくなりました。今の課題がみえなくなっていたのです。学級通信を書くよりもその子の声に耳を傾けることがその時の課題だったと後でわかります。今の課題がみえなくなっている状況が今だと思います。職場で仲間と語り合いながら、新しい発想を生み出していきたいと思います。
 
第一分科会・「授業」
算数「高まる学力と深まる学力~6年生算数じっくりコース・異質な学力の子どもたちの中で学力は育つ~」橋本友子(公立小学校)
 単元「単位あたり量の大きさ」で習熟度別授業に取り組んだときの実践です。橋本先生は「学力」が低いとされるじっくりコースを担当。子どもたちに生活からかけ離れたものとして捉えられている算数を身近なものとして感じてもらえるようにさまざまな工夫をしていました。体験を重視し、単位あたりの意味理解を深めていく授業に子どもたちも自信をつけていました。一方で他コースとの学習進度の開き、評価の問題など、習熟度別学習の課題も出されました。
 協議会では、じっくりコースの子たちが同質学力の集団の中で安心感を得ていることの問題点が指摘されました。コメンテイターの今泉先生からは子どもの学習観を変化させるために授業の中で「ドラマ」を起こさなくてはいけないこと、「わからない」ということが学習を深くすることなどが話されました。

 社会「戦没者名簿から見えてくるもの(弟子屈町史より)」鈴木岩夫(北海道)
 釧路学びをつくる会の鈴木先生から弟子屈町の戦没者名簿をつかった実践報告がされました。子どもたちはグループに分かれて、戦没者名簿を年代、戦死した場所などの視点で、整理分類していき、気が付いたことを発表していきます。この学習を通して、子どもたちは戦況の変化や沖縄戦の様子を資料から読み取り、戦争について身近に、そして深く考えることができていました。
 協議会でも、資料をクラスの仲間と共同で水利、想像し、事実を読み取って行く務学習は大切だという意見が出されました。コメンテイターの田所先生からは身近な教材だからいい教材というのではなく、「人々の生き方、社会からファシズムが見えてくるからいい教材なのだ」という話がありました。また体験視野の聞き取りなど、具体的な事実から戦争を考えていくことの重要性も指摘されました。 (文責・吉澤 良紀)
 
 
第二分科会「教師」(教師の挫折と再生)
「教師の挫折と再生」をテーマにした教師分科会も今回で3回目を迎えた。今回の二つの報告は、どちらも人間の尊厳を傷つけられた、痛ましい教師生活が語られた。
 「これじゃ全然駄目だ」「教師力がまったくないんだよ」教師2年目の報告者が初任者の時に管理職や指導主事から浴びせられた言葉だった。
 「お前が悪い。お前の授業が下手だから・・・」「給料をもらっているんだろう。アルバイトじゃないんだぞ。しっかり働け」管理職の言動だ。教師1年目にして死に追いやられた亡き娘の尊厳を回復するため、ご両親がテレビで報道されたときの様子と共に語ってくださった。
精一杯仕事に取り組んでも認めてもらえない。管理職からの、指導という名の卑劣な言葉の連発。いじめとも受け取れる状況が続こうと、二人の教師は子どもと向き合うことをやめなかった。子どもの活躍をノートに記したり、個別に子どもの観察記録をとったりと、常に一生懸命だった。
 教師2年目を迎え、「話を聴く・聴かせる」ことに重点をおいた指導を大切にしていると語る報告者の声は、少しだけ明るく感じた。娘を失った悲しみに打ちのめされたご両親も、公務災害で訴えたことを報告したことで、大きな一歩を踏み出されたのではないだろうか。
 約30人の参加者からは多数の感想や質問があった。例えば、北海道からの参加者は今年の4月から導入される教員評価制度への不安を語った。若い教師だけでなく、中高年教師ならではの辛い気持ちがあるという話があった。また、定年退職を2~3年後に控えた教師たちの居場所についての問題提起があった。参加者それぞれの「つらさ」や、校内体制の「しばり」を大いに語り合う場になった。
 最後にコメンテイターの佐藤隆さんのコメントの一部を紹介する。「教師としてやりたいことを、本音で語り合い、聴きとりあう関係を一人でも二人でもつくっていけるかがこれからの勝負になると思う。この関係をつくれた人が、やっぱり教師っていい仕事だなってなっていくように思う。」
(文責・ 山口 貴子)
 
 
第三分科会「社会と子ども」・・・「学ぶ」とはそもそもどういうことか?
①「夜間中学の交流で考えるこどもたち」(自由の森学園中 玉木志乃さん)」と②「魚の顔から何が見える・・・?」(北海道忠類小 木下郁恵さん)の二つのレポートをもとに学びあいました。参加者は20人。夜間中学との交流では中学生3人の他、見城慶和さんも参加して報告を補強してくれました。
玉木さんは、ご自身の夜間中学訪問を通して、学ぶことの意味と価値を感じることができたといいます。総合では、見城先生のお話も聞き、夜間中学訪問をおこなったということです。見城さんからは、夜間中学の歴史や現状や「夜間中学生」の学びについてのお話がありました。中学生からは「中学生がいると思ったらお年寄りがいた」「みんな真剣な表情で学んでいた」「自分の学校ではみられない光景」と感想が述べられました。討論を通して、一般の中学校との違いは「中学生」の学ぶ必要や要求だけでなく、学ぶ側にあわせて対応できる学校のしくみにも関係しているとの指摘がありました。
 忠類小学校は北海道標津町、大自然の中にあって、今年度で閉校となる児童数6人の僻地校です。こんなに自然の中で生活しているのに、おとなが連れ出さなければ子どもたちは自然と触れあわないと木下さんは言います。川にはいっぱい魚がいるのに、子どもたちが描く魚は、都会の子と同じ「左向きの横顔姿」。「今日川に探検に行くよ」と言って川探検に行くと「先生、場所によっている魚が違うね」と驚きと発見の連続。「自然の中には教科の枠には入りきらないゆたかな教材が転がっている」と話します。「正面からみた魚の顔を描いてみよう」と課題を出すと、子どもの関心は顔の形の違いからからだの色や形へと広がっていきます。どうしてなんだろう。疑問はどんどん広がります。木下さんは「魚を見ると生き物がわかる。地域がわかる。ものには理由があることを教えたい」と話します。
 体験やリアリティーのある素材があると授業は深まる。生活課題と結びついた授業をどうつくるかが問われている。コメンテイターの本山さんの発言で会は締めくくられました。 (文責・ 宮下 聡)
 
 
第四分科会「子ども理解」
第四分科会は、子どもたちの生きる姿に切実な意味を発見しようとしている、小学校の若手の先生お二人の、真摯さが印象的な語りをきく場になりました。子どもに寄り添うには、子どもが背負った現実を引き受けていくことになります。そこにたじろぐことがありつつも、幾度も反省しながら立ち会っていくお二人の話に、ききいりました。多くは若い参加者でしたが、ベテランの先生たちが暖かくお二人の話に耳を傾けことばをかえして、受け止める場
になりました。楽しいエ
ピソードには、参加者か
ら笑い声があがりました。
 教職2年目で4年生を担任していいる伊坂さんは、1年目に子どもたちの声をきくことができなかったという反省を抱いて今年度を迎えました。平和そうな中に何かもやもやしたものが感じられたり、感動の行事もありながらトラブルもあったりする学級の時間を過ごして、どの子の声に耳を傾けたらよいかに悩みながら、暖かい学級づくりを目指しています。
 教職4年目で2年生担任の武田さんは、1年目の苦労から、保護者の不満が不安とつながっていること、それは子どもの不安でもあることに気づき、子どもの安心のためにどうすればいいか考えました。そして今は、プリントと日記への細やかなコメントを通じて対話を試み、先生が見てくれているという安心感をもてるようにしています。
 どのように生きている子どもたちとどう向き合っているのか、参加者も加わって話されました。特に、家庭での生活や保護者との関係の問題、「虐待」の問題、「軽度発達障害」の子どもとのかかわりの問題について、その困難さと、どのようなまなざしを向けることが望ましいのかが語り合われました。
 片岡先生は、ききとりあう子どもたちの関係をどうつくれるのか、教師がきくべきことは何か、保護者へのまなざしを変えていくことはできないかなどと、コメントされました。
 
 
日韓教師交流会 
 *この第10回集会に先立つこと一週間。1月21日(土)午後、「学びをつくる会」と「学び探偵団アニマシオンクラブ」の共催で日韓教師交流会がおこなわれました。数年ぶりという大雪の東京でしたが、元気な韓国の先生方を迎えての交流会となりました。豊島区の南池袋小学校を会場に日本と韓国あわせて100名余りの教師が集いました。

 韓国からは「トゥレ小学校」のチョン・キウォン先生が「夢を育む希望の学校」という「学校づくり」にかける実践と理想を語りました。韓国の教育の現状の中で、真に子どもを育む夢をもった教師たちが理想に燃えて一からはじめた学校づくりの現状をいきいきと語っていただきました。「一人で考えているうちは夢だが、10人の仲間ができれば実現する」という韓国の言葉を引きながら、その努力と実現の家庭を語りました。学校の実践も紹介していただきました。

 日本側からは、佐藤隆さん(都留文科大学)が、日本の学力問題の現状について、PISA調査の結果をひきながら、わかりやすく解説し、「学び」づくりの模索が始められていることをお話いただきました。また、静岡の笠井英彦さんの「ワークショップ」もひらかれ、禁煙教育の現状について考えました。韓国の先生かたが率直に意見を述べられていました。

 参加した日本と韓国の教師たちがともに両国の子どもたちの現状について共通理解を広げ、それぞれの国での実践の幅を広げるための貴重な機会となりました。

 夜は文化行事です。ピアノとコントラバスのコンサートになりました。松本敏子さん、松本茂さんの奏でる音色を楽しみました。昨年来、恒例(?)となった「アリラン」「故郷」の合唱もあって気分も高まり、再会を誓いあってわかれました。