第2回集会


 
学力に血を通わせよう
 全体会講演で行田稔彦さん

 「学びをつくる会」第2回集会は10月12日(土)午後、東京豊島区民センターで開かれました。参加者は全体で160名でした。全体会場のホールには多数の方が参加し、熱心に講師の和光小・和光鶴川小校長行田先生のお話をうかがいました。


全体講演・「学びの実感」のある授業をどうつくるのか
                     講師・行田稔彦さん



 行田さんの紹介は練馬の小学校教師・市川良さんからおこなわれました。若いころの行田さんの姿の紹介もありました。
 行田さんはくわしいレジュメを用意してくださいました。しかし、時間が少なくてその内容を全面的に展開することはできませんでしたが、概略次のようにお話されました。文責はすべて編集部です。

 行田さんは明快に今日の「学力問題」は「大人の問題」であるとし、3つの観点から述べました。①どの子も「わかりたい」という要求があり、その要求に応えるということを軸に考えるべき、②一つひとつの知識がバラバラでなく、関連をもっていることを重視すべき、③こういう教育を子どもをまん中にして地域や親がどうかかわっていくかを考えるべき、という柱にそって話されました。

①すべての子どもの「わかりたい」という要求に応えることを軸に
和光小の障害をもった子どもの詩を紹介されました。ダウン症の子ですが、「春のはっぱはやわらかい、春の緑はやわらかい」という詩を書きました。この子は自分の障害をもみつめていました。早く走れない、ころびやすい、などという詩を書いてきました。「自分は自分」ということで、自己の存在をたしかなものとしています。この「願い」からはずれたらだめだと思います。
 「学力をつける」という発想を超え、どの子ももっている「わかりたい」という願いに応えることから出発すべきです。

②一つひとつの知識がバラバラでなく、関連をし、意味をもっていることを
ある学校では階段が九九でうまっていました。意味のあることを教育で重視してきたでしょうか。父母会で小学校五年までのある子の算数の遍歴が話題になりました。小学校1年の時、タイルを使って勉強しましたが7-3=の時、タイルを5のかたまりにしてしまうと-3がありません。「5をバラバラにすれば・・・」というと、その子は「あとでバラバラにするものなぜ固めるのか」と疑問をだしました。2年の時、かけ算をやりました。3×4=がわからない、というので3+3+3+3=で説明すると、「足し算でできるものをどうしてかけ算を使うのか」と疑問をだしました。こういう疑問にていねいに応えながら、かけ算の意味や数字の意味を理解していきます。学力に血を通わせるのは、個々バラバラではなく、つながりをもって、知識になっていくということです。学びというのは、もともと総合的なものなのです。ある子は「学校を休みたくない。頭がよくなってく」と表現しています。
学力に血を通わせる要素についてお話します。。
 イ)五感を通して見る・聞く・やってみる
世田谷の幼稚園の子どもが町田にやってきました。町田の鶴川小ではチャボを飼っています。鶴川の子どもが虫をとってチャボに与えました。チャボはよろこんで食べました。世田谷に帰った子どもがチャボに虫を与えました。チャボは逃げ回りました。都会のチャボと田舎のチャボの違いです。それをみて子どももびっくりしました。
 「ゲーム脳」という本を読みました。たくさんゲームをやっている子の脳波は痴呆症の老人の脳波と同じだそうです。反応に対する刺激が前頭葉を通らずにおこなわれるため、キレやすいというのです。シナプスがそうなってしまっているということでした。
ロ)子どもの問いを大切にする
 単純な体験主義を批判します。体験重視と何が違うかというと「子どもの問いを大事にするか」どうかということです。「適応主義の知」か「批判的な知」かということです。適応主義では子どもの疑問はうまれません。次々と子どもの問いがでるかどうかということです。

③家庭・地域・学校でできること
今、子育ての岐路にたっているといってもいいでしょう。「血の通った学力を育てる=総合学習の理想」か「エリート選抜競争の道」かが問われています。教師や親の本音はどちらにあるのでしょうか。わりきれないものとして悩んでいると思います。このことを「一人ひとりが語り合う」ということがキーワードになるのではないでしょうか。島根県の中学の教師が去年の9・11のあと、クラス討論をした様子を冊子にして送ってきました。受験の中の中3がこういうことをやることはすごいと思いました。この文章を読むと、一人ひとりの中にも分裂があります。テロを憎むが報復を容認していたり・・・戦争には反対だが後方支援は賛成だったり・・・こういうことをよく考えればいいと思います。真実を知ることが大事です。中学生が大人の社会を信じたいのですが、信じ切れない現実もあるということです。この中学生は外にむかって発表しています。
こういうことを「語り合う」ことだと思います。

 

4つの分科会も
 全体会に続いて、4つの分科会にわかれました。それぞれの分科会のようすを分科会世話人から報告します。

第1分科会・教科を深く豊かに
 渡辺恵津子さんのレポート「学ぶ子どもが主人公~討論、問題づくり、探検、レポートづくりで広がる算数の世界」を中心に学びあいました。
 だれも受け持ち手のない小学2年生。初日から6人の子どもが「先生ぶたれたあ」「つねられた」といわれのない暴力で泣かされ、「やだ」「やりたくねえ」「ムカツクんだよ。てめぇ、ぶっ殺す」と叫ぶ数人の子・・・そんなやんちゃざかりの子どもの中で、恵津子先生は魅力的な授業をすすめます。
 夏の暑い日、そんな男の子が「・・・すげぇ水飲んじゃった」と叫びながら教室にはいってきた・・・そこですかさず「かさ」の授業は「だれが一番水をのんだか・・・」ときりだす・・・恵津子先生ならではの授業プラン(?)
 3年生でのかけ算の問題づくりの話。子どもが「1年間で自分はどれだけのトイレットペーバーを使うか」という問題を考えてきた、とのこと。こうしたおもしろい問題を子どもが自由に考えれる土壌を恵津子先生は上手に耕しているんだなあと関心します。さらに子どもたちはトイレットペーパーやネコのトイレの砂は水に溶けるけれど、ティッシュペーパーは水に溶けないことをペットボトルの実験で確かめたとのこと。この話は子どもの活動が手に取るように分かりやすく話していただけました。3年生の算数の中のただのかけ算・・・がこんなに子どもたちの心をときめかすものに変身するなんて、やっぱり恵津子先生はただ者ではない・・・と感心しきり。




ところで、参加者に若い先生や先生候補生がものすごく多かったのも特徴的でした。60人ほどの参加者の約半数を占めていました。
 司会の田所恭介さんの名司会で、小グループ討論ができ、若い先生たちがちょっぴり勇気を出して討論に参加できました。(田所さんすごい)
「渡辺先生も失敗されたのでしょうか。どんな失敗をしたのですか・・・」という質問。そう、恵津子先生も初めから恵津子先生ではなかった・・・でも、若い僕たちにはどうしたらいいのか戸惑ってしまう・・・そんなつぶやきが声にだされたのでした。恵津子先生が「そんな質問をするあなたがステキ!」と言ってましたが同感。
 若い人が思いっきり「学び」への疑問や思いをぶつけられるそんな会にしたいですから。 (まとめ・市川良)

 


第2分科会・学びの評価をどうつくるか~教育的評価をクリエイティブにつくりだす~
 まず、分科会世話人の菊地良輔さんから「評価・評定問題」そのものについての整理された提起がありました。「評価」だけが問題なのではなく、教育実践そのものの問題でもある、「評価」と「評定」を区別して考えなければならない、どちらも子どもの発達に役立つものでなければならない、だとすると「選抜」や「推薦」の材料としてよいか、と指摘し、そして「相対評価」と「絶対評価」の問題にはいりました。相対評価は集団の中の相対的な位置を示すものでこれまで選別・振り分けに利用されてきました。「絶対評価」は「目標に準拠した評価」と考えられます。しかし文部科学省は「学習指導要領の実現」を絶対評価の目標としています。私たちはどちらとも違う「教育的評価」を明らかにするべきであると菊地さんからの提起でした。

 続いて板橋の中学校の社会科教師の滝口正樹さんから実践に基づいた提起がありました。時間の関係で授業実践のくわしい報告ぬきの問題提起となりました。しかし、精力的に社会科の授業、総合的な学習の時間の活用、選択教科の授業をつらぬくとりくみの中でどう評価を考えたか、の提起でした。教師からの言葉かけ、感想発表の評価、ノートの評価、一人ひとりとの対話、自己評価、生徒同士の評価、ミニ「修了証」、人とのであいによる人からの評価、など多様な場面での積極的な評価の例がだされました。

 参加者は中学校の教師が多く、今の問題の集約点が象徴されているような気がしました。「アカンタビリティが強調され、とにかく親に説明できるように」というだけの管理職。「細かい評価基準・評価規準を教育委員会で決め、その通りの評定記入だけでなく、授業そのものまでしばってしまっている」静岡市の例などもだされました。
 参加者の関心が「文部科学省のフォーマットにどう対応するか」という点と「本来の教育的評価をどうつくりだすべきか」という点にわかれていたようです。最後に大学生から「納得できない評価をうけた時、説明はされるが、その先はない。そのあとのフォローが大事なのではないか」と指摘されました。評価される子どもの側の視点を考えるということです。     (まとめ・大谷猛夫)


第3分科会・子どもの生活を創る総合的な学習を
スピーチ活動で育つ子どもたち
 「朝の始まり『帯の時間・15分』を使った稲城第六小学校の『全校スピーチ活動』はもう始めて8年になります」報告者の中妻雅彦さんが語りだしました。くりかえし語られる言葉がありました。「これは国語のスピーチ活動ではありません。子どもたちの人間関係を築いていくための時間です。子どもたちの困難と出会い、教師みんなで生み出してきた学校の一致点なのです」
 その特徴は、すべての教師たちがクラスの子どもたち一人一人と深くかかわりながら対話し『スピーチ』が成り立っていくということです。教師が子どもの世界を深く知り、さらに『スピーチ』という自己表現活動を通しながら、クラスの仲間たちとつながっていく活動です。学校や学級が子どもたちの本当の自分を受け止めてくれて「わかる・できる」だけでなく「人間を知り」「人間とともにいる」喜びを伝えていくことがねらわれています。

 分科会の参加者は父母・教職員・研究者など30名を越えていました。
「スピーチの予定表はあるのですか」「テーマはどんなふうに決めていくのですか」「私もとりくんでいるのですが、二学期からどのように進めていいか分からなくなっていました。お話がとても具体的でわかりやすかったです。また子どもたちに取り組ませたいなと思いました」・・・。そんな具体的な質問や発言が次々とだされました。
 報告の内容をさらに深めていく視点からの発言もありました。「“綴り方”とこのスピーチ活動」との違い」「この実践がなぜ可能なのか、それを支えている背景をさぐること」「スピーチが学校の一致点となり、教師の実践を支え“ほっとできる基盤”となっているのではないか」「活動をささえる背後に学びの様々な場面で共同の学習が創り出されているのではないか」等・・・。 時間があればさらに『スピーチ活動』という実践のもつ“可能性や課題”を考えていきたいと思いました。 (まとめ・山崎隆夫)

 


第4分科会・今を生きる子どもたちに寄り添う
失敗する権利と責任をとる体験を 講師・宮下聡
 明るい笑いをいっぱい誘いだしながら、重要な中身の話を具体的な子どもの姿ではなされた。さまざまな要因で弱気になりがちな今日、参加者は多くの元気を貰っただろうと思う。
 たくさんの話の中から特に印象に残っているものをいくつか記すことにする。
 ◆自分で考え、判断し、行動する中学生に。
子どもはすぐに「いいじゃん」という。(いいじゃん病の子)これは自立の遅れである。子どもを自立させるには、子どもが自分で考え、決定し、行動できるようにすることが大事だ。そこには失敗見え見えのこともある。しかし、転ばぬ先の杖は出さない。失敗することが子どもには必要な体験であり、権利だ。その場合、子ども達が自分で責任を取るのだが、「大丈夫よ」と言って支援するのが大人(教師)の役割だ。ところが今、子ども達は迷い、考えているヒマさえない。彼等が判断し、決定せねばならぬことを大人がしてしまう。幼い頃から家でも外でもそう育てられてしまっていることが自立を送らせてしまったのだ。
 ◆「~~らしさ」「~~もんだ」から脱け出し、子ども達の行動の背景の本質を捕らえる。「らしさ」「もんだ」で子どもを見ると、今の子からはダメな姿しか見えて来ないから、暗くなり、希望が出て来ない。こちらの「らしさ」がずれているのではないかと考えてみたい。常識と思っていることを変え、子どもの常識は何かから組み直してみると、子どもの「あるがままの姿を受け入れ」ることが可能になってくるし、「いいじゃん病」の克服にもつながっていく。
 ◆肩の力を抜いて子どもにむきあえる(落ち込みに効く)フレーズ10より
問題が起きたときが対話のチャンス/きっとわけがあるんだよ(「問題児」でなく「ワケありの子」)/明日できることは明日やる。明日のために今日も寝る。
(まとめ・中島礼子)